由緒

本山

大本山 永平寺 (福井県永平寺町)
境内10万坪の中に、70余棟の建物が整然と立ち並ぶ。
大本山 總持寺(神奈川県横浜市鶴見)
境内15万坪の中に、1,000畳敷の大祖堂を中心に50余棟の伽藍が偉容を誇る。

境内10万坪の中に、70余棟の建物が整然と立ち並ぶ。


開創

楠木正成公・遺状

当山の草創期は詳らかではないが、往古は真言宗か天台宗かの霊刹と伝えられる。室町時代初期、時の嶽城主・神戸太郎最重が、応永10年(1403)頃岩船・耕雲寺の傑堂能勝禅師の道風を慕い、師を勧請して中興の祖となし、爾来、禅刹として再興。


ご開山・傑堂能勝禅師

傑堂能勝禅師
耕雲寺を初め、8ヶ寺を開創。

ご開山・傑堂能勝禅師は、後醍醐天皇を支えた南北朝時代の武将 楠木正成の直孫と伝えられる。早くから祖父・正成の意思を継いで、南朝の再興を願い、一族と共に良く奮戦するが、25歳の時、戦国乱世の虚しさを感じ、諸方に多くの禅匠を参じた後、越前・龍沢寺の梅山聞本禅師の会下[えか]に投じ、禅の奥義を究めたといわれる。


法燈復興

面山瑞芳 禅師 頂相
近世曹洞宗を代表する宗学者。祖風の宣揚に貢献、多くの著述を残す。
衡田祖量 禅師 頂相
慈光寺29世、面山禅師の高弟。寺門の興隆に貢献。
堀丹後守直竒 公
村上藩主。當山中興開基。沢庵禅師とも親交があり、琵琶を嗜む。

ご開山の徳風は、その弟子にも及び二世・顕窓慶字、三世・虚廓長清、いずれも学徳高く、越後、奥羽、北関東一円にわたり、教線を拡張、法燈の赫灼たること久しく続く。しかし乍ら、天文年間(1532~1554)に於ける国内騒乱は、寺領の大半を武人によって侵掠され、また数次の火災に会うなど伽藍も荒廃に委せ法運衰微、悲境に陥る。その後、村上藩主・堀丹後守直寄、村松歴代藩主の帰崇、さらに小浜・空印寺面山禅師の上足、衡田租量の 晋住により法筵、再び繁栄。


守成期

守成期
600年の間、栄枯盛衰、時代の影響を受けながらも法灯を持続。

明治期に至り、新政府による神仏分離令、廃仏毀釈は、未曽有の混乱をもたらし、古格としての特典はすべて廃絶、寺領も大半、上地を命ぜられ、存亡の危機に遭遇。また「専門道場」の返上、戦後の田地解放なども加わって、昔日の盛観は今では見ることは出来ぬが、近年「昭和」「平成」の二度にわたる篤信者の肝いりで修復工事を行い、往年の威風に息吹き注ぐのに一役を担った。


滝谷琢宗禅師

滝谷琢宗禅師
明治四年、36歳にて慈光寺住職となる。

慈光寺は、明治に入ってからも、名僧・善知識が多数輩出しているが、中でも川西町(現・新潟県十日町市)出身の滝谷琢宗禅師は、近代の名僧である。真福寺にて出家、正円寺、英林寺を経て慈光寺42世として晋住、さらに大雄山最乗寺(神奈川県)に昇往し、50歳の若さで大本山永平寺63世として猊座につく。明治期の佛教界全体にとって難局の時代に在家化導に大きな役割をはたし、中でも「修証義」編纂に心血を注いだことは、特筆に値する。