夏も終わりです

今年の夏も終わったが、いつにない暑さであった。連日のように熱中症の注意予報がニュースでながされ、死者も相次いだ。高知の四万十市では、41度という最高記録を更新、そうかと思うえば秋田、岩手では今まで経験したことのない大雨。この異常現象は地球の温暖化からくるものと思うが、この温暖化は人間中心、自己中心的な考え方がもたらしたものであろうと思っている。この人間の傲慢さ、欲望が自然現象まで変えてしまうならば、人類のゆく末に恐ろしさを感じ無いわけにはいかない。今は経済優先の世、だが二者択一では抗しれないところまできている。温暖化を食い止めようとすれば、経済的コストや社会システムに混乱が生じ、大きなリスクが伴う。また温暖化の進行を許せば、いずれは人間の力ではおそらく対処できないのではないか。

「知足」という言葉がある。足るを知る、充分満ち足りているということである。悲しいことに我々は、充分な物やお金、名誉、地位や権力を得ても更に上を求めて奔走する。求めても求めても満足することができない。それは人間の多くは「生」の本質を中々体得できないからではないか、欲望を無くすことはできないにしても、「生」を維持するのに必要なものだけで、事、足れりという社会的風潮が欲しいものである。

7月の慈光寺

今年の七月一日の例祭では、昨年同様、精進料理についての話をして戴いた。
今年は特に前日からきて当日の献立までお願いした。素材ほとんど捨てること無く利用し、その生かし方にお勝手の人たちは多いに学んだようだ。食するということは、お腹を満たすためのものだけではなく日常の過ごし方、生き方にも繋がる。
食事が出来るまでにはいろんな関わりがある。お米一つとってみても、秋に刈り取るまでには多くの労力、水、温度、酸素、肥料、歳月、太陽といった沢山の関わりがある。
庫裡の裏庭は、いつも雑草で悩まされていたが、今年は考えを変え、そこにナス、胡瓜、トウキビといったものを植えてみた。小石だらけの土なので実らないかもしれないが、ナスは一個の収穫があったので他のものも期待して、毎日水をやりながら楽しんでいる。いま本を片手に毎日出る生ゴミを利用して土つくりをしている。
土に接して思うことがあった。大地はいつも呼吸をしているということ。当たり前のことであるが人間と同じように空気を吸い、その空気が大地の中にも枝分かれをして木の根や土の中の生き物たちが生きているということである。
しかしいつごろか人間はこの生態系を無視し、効率の良さ、便利さ、人間中心となり 大地と共に生きている生物を顧みなくなってしまったのではないか。人間の開発によって大地は呼吸不全を起こしているのではないか。人間が呼吸できるのも、いろんな関わりのあってのことである。



 日本はどこへ行っても、お寺のない村、神社のない町などはない。しかも若い世帯を除けば、各家庭には、ほとんど仏壇があり、神棚を祀っている。これほど浸透しているのにブータン国のように、国民の多くは満足感や幸福感を味わってはいなそうである。その違いはどこにあるのか。
お釈迦様は、人がもし安らぎ求めるならば、それは常に移ろい変わる財力や地位などに依らず、古今東西に通ずる不動の真理、法を灯火として生きなければならない、と示している。その真理であるが、我々は多くの人や自然との関わりの中で、生かされて生きていることを考えると、自分自身のためにではなく、他人のために生きることにつながるのではないか。
永平寺の道元禅師は「自己を忘るるは万法に証せらるるなり」と説かれ、彼の伝教大師も「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と教えられている。いま、多くの人が「いかに生きるべきか」に苦悩している。それは人を愛し人の役に立つ自分を忘れて、己のみの幸せを求めているからではないか、と思うのである。私は人から木偶の坊と呼ばれても一向に構わないといって法華経の熱心な信者であった宮沢賢治も「あらゆることに自分を勘定に入れず」といって生涯を燃焼した。この自己を忘れて他を利するところに仏道の根底があり、生きる源がありそうである。

秋晴れ

朝夕めっきり寒くなったが、この時節は空気が爽やかである。その澄んだ空気のせいばかりではないが先日、本堂で行われたバイオリン、フルート、ピアノによる小さなコンサートは音色がとてもきれいでよかった。
お寺の行事が多いのもこの季節である。先日、二つのお寺で新たに住職になる晋山式という儀式があった。これは住職の就任という意味合いだけでなく、自分がいままで培ってきた仏法を檀信徒の皆さんに披瀝することも含まれている。
地方の禅寺では、首座と呼ばれる修行僧の第一座と共に、十数人の僧侶から古式に従って問答が交わされる。十月は「達磨忌」があるせいか達磨さんと、 時の皇帝・武帝との仏教の問答が課題となることが多い。武帝という方は仏心天子と呼ばれたほど仏教に帰依し、多くの寺や僧侶を養成した人である。仏道の究極のところを達磨さんに尋ねたところ、「無功徳」とか「廓然無聖」の答えが返ってきて、その真意を理解できず戸惑う様子が伝えられている。
我々の日常も仏教を信じていれば、功徳があったり御利益が有るように思いがちであるが、実はそうではない。功徳が有るとか無いとかを期待しない。廓然とは秋晴れのようにチリもゴミも何もない状態、無聖も聖なるものが無い、のではなく俗をも聖をも超越した境地である。人生は相対的二元的な対立がある為に悩んだり苦しんだりして疲れてしまう。無執着な世界が大きな力を与えてくれるのである。

稲刈り

周囲は稲刈りの最中である。今年の夏の様な厳しい環境でも稲は育ってくれた。我々は、計り知れないほど多くのことを自然界から恩恵を受けている。土一つ取ってみても地球の仕組みには欠かせない。すべての植物は土によって育まれ、それを食べる草食性の動物がいて、またそれを食べる肉食性の動物もいる。また土に還せば微生物によって分解され、もう一度新しいものに蘇生される。土は生き物であるから、あらゆるものに関係しあい循環している。
しかし今の世相はこの「関係」しあうというものを、あまり大切にしていないのではないか。自然と人間との関係、人と人との関係、生者と死者との関係など。
仏教では「縁起」のことをいう。すべては縁によって生ずるというのである。すべて寄り合い、支え合って成りたっている考えである。自然をも含めた他のものをプラスになる様な生き方が見直されて欲しい。