自然の恵みを受けてみよう

桜はすでに散ってしまったが、周囲は爽やかな翠にウグイスの声、心地よい時節である。
先日、五泉市に於いて「全国さくらサミット」が開かれた。各自治体の自慢の桜が紹介され、観光面、桜を生かした新たな取り組み、専門の先生の話を交えて意見の交換があった。見事な滝桜、なかには樹齢1,500年のもの、20キロにも及ぶ桜並木もあって、桜に対しては古来より日本人は特別な思いを以て親しみ、保護してきた。
村松も日本さくら名所百選の一つである。奈良時代にすでに絶えたとされる希少品種・穂咲彼岸八重桜もある。花びらから抽出した香水にも成功し、この芳しい匂いが脳の活性化ともなりアルツハイマーなどに応用できそうだとの報告もあった。自然からのものを生かしたいろんなものに活用できればうれしい。
人間以外の動物は自然との結びつきが非常に強く、生存のために感覚が鋭いものをもっている。我が家で飼っているチロ(犬)も、参拝者がまだ見えぬ遙か彼方であっても反応を示してくれる。ヒトもかなり昔に於いては自然との共感共鳴、そして肌で感じる直感というものがあって、自然の流れの中に人間としての主体性を保ってきた。自然を支配するという発想は無かった。文明の進歩と共に効率や利便性を求めて近代化してきた反面、人間がもともと持っていた機能、感覚が退化、マヒしてしまって新たな病気をつくったり生きるエネルギーが失われつつあるのではないか。自然からの恩恵をもっと受けてみても良いのではないかと思う。

除雪もなかなか大変です

慈光寺には四軒の門前があって、お寺の行事や用事には率先して手助けしてくれた。それが最近高齢と共に後が続かず危惧を感じている。自分自身でも最近は体力や気力の衰えを感じ不甲斐なく思うことが、しばしばである。特に雪の季節には自ずと年と共に年齢というものを思うようになってきた。
勝手な見方であるが例外や個人差はあるにしても体力的にいいのは、十代後半から二十代にかけてではないかと思う。いま行われているソチのオリンピックの葛西選手は四十一歳にも関わらず銀メダルを手にし、長年の研鑽と精神力はその限界を極め、内外の多くの人から伝説の人として称賛を受けている。
しかし相撲の世界をみると三十代に入れば、肉体的には下り坂のようにみえる。年をとってから大関や横綱を目指そうとしてもかなり難しそうである。それでは知力はどうかといえば体力とは異なりもう少し余計に見て良いのではないか。           肝心なところであるが、それらのピークを過ぎれば、この世の中で活躍出来ないかと言えば、決してそうではない。 実際はむしろより良い仕事をし責任ある地位にもついている。そこには長年培ってきた経験というものがある。年齢によって持ち味は異なるが、経験というものは、能力以上に人間を深いものにし豊かなものにしてくれる。さらに周囲の人の協力があって持てる力がより良く生かされているのでは無いか。その違いを理解し尊重し合ってこそ社会や家族の働きがよりよく結ばれていくのではないか、と思うのである。

別所 虚空蔵尊 祭礼

日本は、古来「静寂」を重んじた国であったと思う。静は環境の静けさ、寂は心の静けさである。いわゆる二つにして一如の世界である。能やお茶の世界、武道の世界においても、その静寂の深まったところ、人間の計らいの無い世界にその精神を求め、自己を高めたのであろう。

  にごりなき 心の水にすむ月は 波もくだけて  光とぞなる

という道元禅師の和歌が改めて思い出される。心の波が静まらなければ真の世界が見えてこず聞こえても来ない。 いまは騒々しい世の中になってしまった。あちこちで自分の立場、考えを守ろうとして対立が起きたり、また逆に雑音がないと不安を感じたり、静寂さにも耐えきれない若者も出てきているようだ。
虚空蔵菩薩の「虚空」は海や空よりもはるかに広々とした空間を意味し、それが全てを包んでしまう、というのである。この度の祭礼には多くの方がお参りされました。ご祈祷された皆様に授けしたお札は、その分身であります。その虚空蔵菩薩とのご縁により新たな心にきりかえ、菩薩のおおらかな心と一体になり、日々いいご縁を結ばれることをご祈念するものであります。
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整理整頓

最近は整理整頓が出来ず頭を悩ましている。ついいましがたのことでも何処に置いていたのか、なかなか思い出せず探し出すのに無駄な時間を費やしてしまう。雑然とした部屋で探すのは中々難しい。整った空間で過ごせば、心も整えられクリアになる。
情報にしてもしかりである。インターネットや携帯電話など、今の暮らしは様々な情報がすぐ手にいれることが出来、確かに便利には違いないが、そのうちほんとうに必要な情報はどのくらいあるのか、と思うと考えてしまう。情報に躍らされ、知れば知るほど迷いが深まり、自分が何をしたいのか、雑念に頭が支配されてしまって、大切なことが見えなくなってしまう。
禅寺の修行の一つに「作務」というのがある。境内の隅々まで徹底して掃き清めることである。玄関やトイレがきれいに清められていると、自ずと背筋を正してしまう。作務とは、汚れを取ることが目的ではなく、自分自身の心を磨くことと言っていい。

地元・蛭野地区は銀杏の時節です

秋も深まってきた。山や里にはそれぞれ衣装替えをし、まもなく蛭野の銀杏も道路一杯に黄色のジュウタンを敷き詰めていく。毎年繰り返される情景であるが、自然の仕組みや営みには驚くべきものがある。その自然の働きの中で多くの生命が深いところ、しかも巧妙に繋がって呼吸をしている。まさに神秘的である。
最近、十数年の悪戦苦闘をし、無農薬栽培で成功したりんご農家の話を耳にした。収穫は多少落ちるが、肥料を与えなくともおいしさは抜群であるという。自然の力、営みに任せるといっても決して手抜きをしたわけでは無い。自然の摂理にかなった栽培方法のようだ。
今は技術の進歩により収穫量が先行されるが、ひとたび人間の生き方に置き換えれば、はたして豊かで便利な生活だけを追い求める考え方だけで良いのだろうか。経験や苦労のなかで、いろんな関わり合いをもち、身も心も本来備わっている「人間力」を高める必要があるのではないか。
便利な時代の中での生き方、過ごし方、育て方を改めて考えてみなければならない。