虚空蔵尊例祭に因んで

二月十二日(宵祭)・十三日(本祭)は、別所虚空蔵尊の恒例の例祭である。この祭礼は当地にとってはひとつの季節の節目と考えられている。この行事が終えると、それまでの冬の厳しさから一転して春の陽気なこころ持ちになる。雪国ならではの感触である。
今では野菜や果物にしても、一年を通じての季節感が感じられない。生活はどんどん便利になって、余り努力せずとも希望するものが容易に手にすることができ、良き時代である。

かつては自分の欲しいものを手にするためには相当の努力や歳月を積み重ね、自らの汗水が必要であった。そこには手に入れた充足感や喜びというものがあったが、残念ながら今日では次々と欲望だけが先行して満足感を味わう事が少なくなってきた。
それだけではない。手に入れるために努力したその過程で、知らず知らずのうちに社会との共存や暗黙の秩序・ルールというものも身に付けたものである。今は自分の尺度からしか判断出来ないものが多い。許容範囲が狭くなれば、自ずと自分の考えから少しでも外れると我慢ができなくなってしまう。一方的に社会が悪い、国が悪い等といって相手に矛先を向けてしまう。これは便利さからうまれた弊害というものであろう。それぞれ自分勝手な事ばかり言っていては、混乱を招くばかりか社会が荒んでしまう。

この頃の食べ物の無駄使いも目に余るが、これは自然界に対しての傲りといってもいいし、こころの傲りでもある。人間の身体には栄養が必要であるように、こころにも栄養が必要である。損得勘定のない物を生かし相手を活かす姿は、周囲に潤いを与えるものである。                         (平成二十八年 虚空蔵尊)

今年の紅葉は美しかった

裏山の白山もうっすらと薄化粧をした。今年は早いのであろうか。雪囲いが気になる。
秋も終わりに近づいたが、今年のモミジはいつになく美しさを感じた。特に赤が鮮やかであった。これは気象現象のせいなのか、受け取る側のこころの持ちようなのか。毎年見慣れてしまうと、その美しさを味わうこと無く、うっかり見過ごしてしまうことが多い。
水一杯入ったコップに、新鮮な水を注いでみても、すぐに溢れでてしまう。現代のような情報化社会に生きていると、情報が無いとかえって不安を覚えることがある。
しかし、沢山の情報や知識のために、我々の頭や心の中は、ストレスで常に満杯になっている。満杯になっていれば、どんな美しい景色も、目の前の美味しいご馳走も、それを真に味わうことは出来ない。
坐禅をする場合、まず身(形)を調え、呼吸を調え、心を調えることを要求される。「身心一如」(しんじんいちにょ)といって身体、息をすること、心は共に密接なつながりを持っている。我執、我欲ではなく、こころの整理整頓をし、いつでも新鮮な空気を取り入れることが出来る様、心がけてみたいものである。
 

時は万葉錦秋の好時節

時は万葉錦秋、天高くどこまで行っても透き通っていて清々しい。また味覚の秋でもある。秋は全てに於いて実り豊かな時である。短い生命の中で最後の輝きを表しているようにも見える。
花の命も人の命も短い。作家の林芙美子の言葉に「花の命は短くて・・・」というのがある。たとえ百歳まで生きたところで、過ぎてしまえばそれは余りにも短く、はかない夢のようなものである。関白太政大臣まで登りつめた太閤秀吉でさえ、死ぬときになってみたら、「難波のことはゆめのまたゆめ」といい、その権力も栄華も夢みたいなものであったといっている。これは、どうせ死ぬ命だからいい加減でもいいということではない。その限りある短い命だからこそ、周囲の紅葉の様に、今を大切に力一杯生き、永遠の命を味わいたいものである。
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法隆寺展 拝観

先日まで、長岡では中越地震復興十年の節目ということで法隆寺展が開かれた。法隆寺は聖徳太子の寺である。夢殿や五重塔をはじめ優雅な甍を並べ、すべての伽藍に重厚な荘厳さがある。そこに鎮魂の仏像が安置されている。仏像を前にしていると1400年、いろんな変遷にもかかわらず、そこには聖徳太子の祈りの心が伝わってくるようである。祈りの力には深遠なものがありそうである。
京都東山にある清水寺もそうである。ここは、年間500万人の参拝者が訪れるという。日本人なら誰しも一度は行っているところ。舞台のある寺である。最近は、年末にその年の象徴することを、一文字に託して揮毫される森清範貫主の姿がよく知られている。
縁あって先日、40名ほどで森貫主の講話を聞きに参拝してきた。慈光寺にとってはおなじみの方である。檀信徒の中には個々につながりを持っている人もいる。この寺にも不思議な力がある。時代や政治に翻弄され、過去に10回以上も焼けているという。いずれも壊滅的な打撃を受けているのに、そのたびごとに以前にも増した復興を遂げてきているという。
清水寺ほど枕草子や平家物語、歌舞伎、落語など随所に話題を提供している寺は、他にない。この寺も、時代を超えて多くの人々の祈りが感じられる。いまは、ものが豊かで便利な時代であるが、心の安らぎがない。祈りが必要である。
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杉並木を守る会  ボランティア

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慈光寺の外郭団体の一つに「杉並木を守る会」というものがある。今年もボランティア活動として六十数名の方が、参道の清掃や樹勢回復のために薬剤を施したりした。これには樹木医の指導のもと、県や市の協力もあって大勢の人が参加をしてくれた。
この杉並木はかっては県内随一と自慢してもよいほど、枝が下まで青々としていたものだが、いまでは残念ながら枯枝が目立つようになってしまった。老木だから仕方がない、と簡単に見過ごすわけにもいかない。杉並木にとっても生きにくい環境になってきているのではないか、と思うと種々考えてしまう。
我々の周囲の自然界を見渡して、その恩恵を受けているなどとは普段は余り考えることもない。人間も自然の一部という考え方があるが、やはり人間中心的発想がまだ強い。樹木の生成によって得られるきれいな空気や水、温度などは我々の生命を維持するのに欠かすことの出来ないもの。
科学の力、その役割は認めなければならないが、温暖化が叫ばれ、この先、資源の活用だけではなく、この地球に存在する全てのものの命と、共に生きようという姿勢が地球規模で考えられなければ、人類の未来に不安を残す。
科学の進歩はあくまでも地球にやさしく、他に対しても害を与えないものでなくてはならない、と思うのである。